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東京都文化財保護審議会の答申について

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公開日:令和6年(2024)2月20日

東京都教育委員会は、令和6年2月20日、東京都文化財保護審議会(会長 後藤治)から、東京都指定文化財として、新指定候補2件を含む3件の文化財について、答申「東京都指定有形文化財の指定等について」を受けましたので、お知らせします。

1 答申「東京都指定有形文化財の指定等について」の概要

新たに指定すべきもの 2件

絹本(けんぽん)着色(ちゃくしょく)五百(ごひゃく)羅漢図(らかんず)  兆溪元(ちょうけいげん)明筆(みょうひつ)      36幅」

相模流(さがみりゅう)里神楽(さとかぐら)

既に指定しているものに(つけたり)を追加して指定すべきもの 1件

()野宿(のしゅく)(わき)本陣(ほんじん)(あと)   (つけたり)  上段(じょうだん)()      1棟 」

※ 詳細は別紙を御参照ください。

2 審議経過

(1)東京都文化財保護審議会総会(諮問)
令和5年12月28日
(2)東京都文化財保護審議会各部会
令和6年1月16日、24日
(3)東京都文化財保護審議会総会(答申)
令和6年2月20日

3 今後の予定

今後開催予定の東京都教育委員会に、東京都指定文化財として新たに指定すること等を付議する。


 別紙

絹本(けんぽん)着色(ちゃくしょく)五百(ごひゃく)羅漢図(らかんず)  兆溪元(ちょうけいげん)明筆(みょうひつ)

 

36幅

【種別】
東京都指定有形文化財(絵画)
【所在地】
護国寺(30幅) 文京区大塚五丁目40番1号
すみだ郷土文化資料館(6幅・寄託) 墨田区向島二丁目3番5号
【所有者】
宗教法人護国寺(30幅) 文京区大塚五丁目40番1号
宗教法人弘福寺(6幅) 墨田区向島五丁目3番2号
【形態及び法量】掛幅装
縦209.1~214.0センチメートル 横128.8~129.9センチメートル
 絹本着色五百羅漢図 兆溪元明筆

絹本着色五百羅漢図 兆溪元明筆

本作は、17世紀後半から18世紀前半に活躍した黄檗宗おうばくしゅうの画僧、兆溪元明によって制作され、延宝5年に完成し、弘福寺に納められた五百羅漢図50幅の内の36幅である。京都・東福寺の画僧、吉山明兆(1352-1431?)が至徳3年(1386)に完成させた50幅の《五百羅漢図》(原本48幅と江戸時代の補作2幅が現存し、原本は東福寺(重要文化財)と東京・根津美術館(重要文化財)とロシア・エルミタージュ美術館に分蔵、以下明兆本)に基づいて描かれる。羅漢は、仏教修行の最終段階に達した釈迦の弟子を指し、五百羅漢は、釈迦の入滅後、経典の編纂等のために集まった500人の釈迦の仏弟子を指すとされる。

各幅には、羅漢が神通力を駆使するさま、仏教史上の出来事、経典等に基づく仏教説話、僧院における生活など様々なストーリーや情景が描かれる。図様の大枠は明兆本を踏襲するが、本作は明兆本と比べて画幅の縦寸が約1.2倍、横寸が約1.4倍となっており、それに合わせてモチーフの大きさを引き延ばし、人物の配置を変更、背景に樹木や岩を描き加えるなどの改変が行われている。特に羅漢の姿は、頭の形、姿勢、手の動きなど、細かいところまで明兆本をよく写す一方で、上半身が引き延ばされたり、髪や肌の色、衣の色や文様が変更されたりするなどの違いがある。また雲や、建物や壇の部材に鮮やかな色を施す点も明兆本とは異なる特徴である。

江戸時代前期に江戸の寺院に納められた五百羅漢図が36幅というまとまった数で伝存している点、さらにそれが当時希少であった大きな一枚絹に濃彩で精緻に描かれている点で意義深い。現存する江戸時代の五百羅漢図としては、最も早い時期に制作された作品の一つであり、また17世紀後半の黄檗宗が江戸に根付き始める時期に生まれた作例としても、絵画史上、文化史上重要と認められる。

相模流さがみりゅう里神楽さとかぐら

 

【種別】
東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)
【伝承地】
板橋区
【保存団体】
萩原よし社中(会長 萩原 由郎 板橋区四葉2丁目30番2号)
相模流里神楽

相模流里神楽

里神楽とは、宮中で行われる神楽かぐらに対する、各地の神社や民間で行われる神楽のことである。笛や太鼓などの鳴り物に合わせて舞う舞台芸能で、全国各地で伝承されている。特に関東地方においては、江戸近郊で継承され発展してきた「江戸の里神楽」のことを指す。神話を題材にした演目を中心に、仮面を着けて無言で舞う。神社祭礼の神賑かみにぎわい(神事以外の、神の魂を奮い立たせ、神を楽しませるにぎやかし行事)として演じられてきた一方で、物語の粗筋を強調し、各時代の世相を反映することにより広く一般の支持を得たように、人々の娯楽としての側面も持ち合わせている。

この江戸の里神楽の流れを汲む相模流里神楽は、江戸時代後期に相模国(神奈川県)から武蔵国南西部(多摩地域及び埼玉県南部)にかけて広範囲に伝来し、江戸近郊農村で盛んに行われてきた。萩原由郎社中は、この相模流を継承する神楽社中である。初代のもんが相模で修業した後、明治初年に東京へ転身、明治6年(1873)に多摩郡江古田の原(現在の中野区江原町)で神楽師として独立した。以後、5代150年にわたり脈々と、相模流里神楽・萩原社中を継承してきた。

相模流里神楽は、民俗芸能の変遷の過程を示すとともに、地域的特色を示す無形民俗文化財として重要である。

()野宿(のしゅく)(わき)本陣(ほんじん)(あと)

(つけたり) 上段(じょうだん)()   1棟

【種別】
東京都指定史跡
【所在地】
既指定範囲  日野市日野本町二丁目15番9
追加指定範囲 日野市日野本町一丁目15番18
【所有者】
既指定範囲  日野市(日野市教育委員会 日野市神明一丁目12番1) 
追加指定範囲 個人
【指定面積】
既指定面積        2,022.43平方メートル
追加指定面積(建築面積) 77.43平方メートル

本件は、かつて日野宿と呼ばれた甲州道中こうしゅうどうちゅうの宿場の脇本陣跡である。都内の本陣・脇本陣跡で敷地と屋敷が現存するのは本件が唯一であり、宿場制度にかかわる遺跡として重要な遺構であることから、平成22年3月に東京都指定史跡に指定された。

現在の史跡地内にある元治元年(1864)に竣工した脇本陣は、かつて正面に式台を備え、上段の間と呼ばれる接客用の座敷を有する、格式を備えた建物であった。

建築当時の下佐藤家の当主・彦五郎ひこごろうの四男である彦吉は、近隣の有山家の養子となり、日野銀行や合資会社玉川商会の設立にかかわるなど幅広く事業を営んでいたが、有山家が日野の大火で焼失したため、明治26年(1893)に上段の間は主屋から切り離され、現在地に移築され、その後現在に至るまで住宅として利用され現存している。

所在地は異なるものの上段の間は、脇本陣跡の格式を示す主たる接客空間として、主屋と一体的な高い文化財的価値を有する重要な建造物であるため、今回、附として追加して指定するものである。

日野宿脇本陣跡

日野宿脇本陣跡

日野宿脇本陣跡

日野宿脇本陣跡

お問い合わせ

教育庁地域教育支援部管理課文化財保護担当
電話:03-5320-6862 ファクシミリ:03-5388-1734
メール:S9000026(at)section.metro.tokyo.jp
迷惑メール対策のため、メールアドレスの表記を一部変更しております。
お手数ですが、メール送信の際は(at)を@に置き換えてご利用ください。

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