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東京都文化財保護審議会の答申について

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公開日:令和2年(2020)2月18日

教育庁

東京都教育委員会は、2月17日、東京都文化財保護審議会(会長 後藤治)から、東京都指定文化財として、新指定候補5件を含む6件の文化財について、答申「東京都指定有形文化財の指定等について」を受けましたので、お知らせします。

1 答申「東京都指定有形文化財の指定等について」の概要

(1)新たに指定するもの 5件

旧赤坂仮皇居御会食所(明治記念館本館)きゅうあかさかかりこうきょごかいしょくじょ(めいじきねんかんほんかん)

旧本田家住宅きゅうほんだけじゅうたく

木造慈恵大師坐像もくぞうじえだいしざぞう

多摩川中流域たまがわちゅうしゅういき船大工用具ふなだいくようぐ

牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)まきのきねんていえん(まきのとみたろうたくあと)

(2)指定を解除するもの 1件

上野毛かみのげのコブシ」

※ 詳細は別紙を御参照ください。

2 審議経過

(1)東京都文化財保護審議会総会(諮問)
令和元年12月25日
(2)東京都文化財保護審議会各部会
令和2年1月20日、23日、27日
(3)東京都文化財保護審議会総会(答申)
令和2年2月17日

3 今後の予定

今後開催予定の東京都教育委員会に、東京都指定文化財として新たに指定すること等を付議する。

 


別紙

 

旧赤坂仮皇居御会食所(明治記念館本館)きゅうあかさかかりこうきょごかいしょくじょ(めいじきねんかんほんかん) 1棟

【種別】

東京都指定有形文化財(建造物)

【所在地】

港区元赤坂二丁目201番地1 明治記念館内

【所有者】

宗教法人 明治神宮

【構造形式及び大きさ】

木造平屋建、入母屋造、桟瓦葺、玄関唐破風付銅板葺、建築面積539.75平方メートル

本件は、明治天皇(1852-1912)の迎賓施設である赤坂仮皇居御会食所として建築され、現在は結婚式場など文化施設として利用されている明治記念館の本館である。

この建物は、最初は明治天皇が住まいとしていた赤坂の旧紀州徳川家屋敷の仮皇居内に、御会食所として明治14年(1881)に諸外国の賓客をもてなすために建てられ、明治22年に西ノ丸に新築された明治宮殿に皇居が移ると、明治31年から同33年かけて解体され部材が一旦保管されていた。

仮皇居及び明治宮殿を設計した木子清敬きこきよよし(1845-1907)は、御所の用を勤めてきた大工の家柄であった。御会食所は、外観は御所風を基本としながら、洋風に床を板敷きとし絨毯や暖炉を導入した初期の例で、和洋折衷の様式に特徴がある。戦災焼失した明治宮殿に連なる遺構であり、日本の近代初期の外交儀礼の場として現存する最古かつ唯一のものである。

御会食所は、憲法草案の審議の場でもあったことから、明治41年(1908)にその功績のあった伊藤博文邸(現品川区大井町)に下賜移築され、憲法発布20周年の記念式典が挙行された。さらに憲法発布30周年を迎えるに際しては、大正7年(1918)に伊藤家から明治神宮外苑(現在地)に移築され、再び式典が催され、その後、明治神宮の結婚式場として利用されている。2度の移築に際しても御会食所の部材や意匠は継承され、明治時代を記念する建造物として高い歴史的意義を有し、かつ意匠的に優れ文化的価値が高い。

代替テキスト
代替テキスト

 

 旧本田家住宅きゅうほんだけじゅうたく 主屋、表門 2棟 土地付

【種別】

東京都指定有形文化財(建造物)

【所在地】

国立市谷保5122番4

【所有者】

国立市

【構造形式及び大きさ】

主屋 木造平屋建、入母屋造、茅葺(鉄板仮葺)、建築面積258.32平方メートル

表門 木造一間薬医門、銅板葺、間口2.5メートル、両袖塀付

土地 国立市谷保5122番4、面積1,170.06平方メートル

本件は、国立市谷保地区の代々の名主で、漢方医、文人を輩出し、近代には多摩における自由民権運動を支えた本田家の住居であった建物である。本田家は寛永年間(1624-1644)から当地に居住したと伝わり、御 うまや方として家光・家綱の2代の将軍に仕えた。

本田家の主屋は、3本の大黒柱など江戸中期に遡る古い形式を残しながら、書斎など接客に供する空間が幾度も拡張され、意匠が整えられてきた。室内に打ち付けられた享保16年(1731)と享和2年(1802)の祈祷札から、この頃に建築や増築があったと考えられ、創建はそれ以前に遡る可能性がある。表門は江戸末期の建築とみられ、甲州街道に面して間口約33メートルと大きく構える敷地には庭があり、主屋とともに、名主家らしい屋敷構えを今に伝えている。

本件は、民家としては都内で最も古い時代の特徴を残すとともに、近代に至るまで民家建築の変遷の過程を示すものとして、かつ、江戸近郊の名主階級の発展の歴史を示すものとして歴史的・学術的価値が高い。

旧本田家住宅の写真と平面図

 

木造慈恵大師坐像もくぞうじえだいしざぞう 1軀

木造慈恵大師坐像木造慈恵大師坐像

【種別】

東京都指定有形文化財(彫刻)

【所在地】

調布市深大寺元町五丁目15番1号

【所有者】

宗教法人 深大寺

【構造形式及び大きさ】

寄木造、漆塗り及び彩色、

像高196.8センチメートル

本件は、比叡山延暦寺第18代天台座主慈恵大師良源てんだいざすじえだいしりょうげん(912-985)の坐像で、天台宗の古刹である浮岳山昌楽院深大寺ふがくさんしょうらくいんじんだいじの元三大師堂に本尊として安置されている。

良源は荒廃していた比叡山の堂舎を再興し、規律の制定や教学の振興に努めたことから、天台宗中興の祖として知られる。勅諡ちょくしは慈恵、正月三日に亡くなったことから元三大師がんさんだいしとも呼ばれている。剛勇な良源の姿には悪霊を退治する力があると信じられ、絵画や彫像、木版画などに表されて祈祷など宗教儀礼の場で頻繁に用いられるとともに、「角大師つのだいし」や「魔滅まめ(豆)大師」など多様な信仰形態を生んだ。

鎌倉時代中期から南北朝時代にかけては等身大の坐像が数多く造立されたが、その中で本像は他に類を見ない2メートルに及ぶ巨大さを特徴とし、僧形の古像として最大級のものである。法衣の上に袈裟と横被おうひを付けた姿で座り、両腕をまげて胸前で右手に数珠、左手に独鈷杵とっこしょを執る。顔貌は魔を圧倒するにふさわしい迫力ある造形で、頬骨の張った輪郭や大ぶりな目鼻立ちは誇張されているが、細部は写実的に表されており、鎌倉時代に遡る作と推定される。深大寺は古くから鎮護国家の道場だったことから、異敵調伏や政変に関わる除災など何らかの国家的祈願のために、こうした巨像を造ったとも考えられる。

江戸時代には「厄除けの元三大師」として参詣者を集め、両国回向院えこういん出開帳でがいちょうも行われるなどひろく信仰されてきた。現在も3月3日、4日に行われる厄除元三大師大祭は境内で開かれる縁起だるま市とともに知られ、多くの人出でにぎわう。

本件は写実的で迫力ある造形から鎌倉時代に遡る作と推定され、高僧の肖像彫刻のうち最大級のものとして日本彫刻史上に重要な意義を持つ作例である。また、現在まで「厄除け元三大師」として篤く信仰されており、関東における元三大師信仰の歴史と文化を示す上でも学術的価値が高い。

秘仏のため50年ごとに大師堂でご開帳されるが、令和2年(2020)4月18日から5月17日に大師堂修繕勧進のため特別開帳される予定である。

  

多摩川中流域たまがわちゅうしゅういき船大工用具ふなだいくようぐ 4,708点

【種別】

東京都指定有形民俗文化財

【所在地】

稲城市郷土資料室 稲城市平尾1丁目9番1号

稲城市文化財収蔵庫 稲城市矢野口3750番地187号

稲城市立第六小学校 稲城市大丸2110番地

【所有者】

稲城市教育委員会

本件は、多摩川中流域最後の船大工、稲城市東長沼の久保井冨蔵くぼいとみぞう(1906-1993)が使った用具である。冨蔵は、和船づくりに使用するノコギリ、ノミ、カンナ、ゲンノウ、クギ、カスガイ、マキハダ等、それぞれの用具がその用途に合わせ少しずつ形を変えた様々な種類の用具を多数所有していた。

多摩川流域では江戸時代から20世紀に至るまで、渡し船、漁船、屋形船等各種の和船(川船)が造られた。船大工はその地域の地形や地理によって異なる川の流れを察知して、その特徴を生かした川船を建造した。多摩川は比較的水深が浅いため、船底が平らで浅い船が普及した。冨蔵が建造した多摩川中流域の川船は、渡し船、漁船、屋形船、砂利船、工事船、ボート台船、木製手漕ぎボートの7種類で、多摩川の川船を網羅している。

冨蔵は大正10年(1921)、15歳で父・峯吉みねきちのもとで修行に入り、平成2年(1990)に最後の屋形船を建造するまで、60年以上にわたり多摩川の川船建造を続けてきた。しかし、渡船場の廃止や、多摩川の流量減少及び水質汚濁等による川漁の衰退、砂利採取の禁止、木製ボートがFRP製ボートに取って代わられる等、船大工の仕事は徐々に無くなり、冨蔵が多摩川中流域最後の船大工となった。

本資料群は、稲城市教育委員会が平成6年(1994)に旧蔵者より寄贈を受け、同29年までに漸次調査報告書を刊行したことにより、その全容が明らかになったものである。多摩川を巡る交通・行楽・自然と密接な関係にあった川船の建造技術が消え去ろうとしている中、多摩川中流域の生活や文化を考える上で欠くことのできない貴重な文化財である。

川船建造用具川船建造用具
川船模型川船模型

  

牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)まきのきねんていえん(まきのとみたろうたくあと)

 【種 別】

東京都指定名勝及び史跡

【所有者】

練馬区

【所在地】

練馬区東大泉六丁目34番4号

【面 積】

2,135.36平方メートル

牧野記念庭園は植物分類学の父といわれる植物学者牧野富太郎(1862-1957)が大正15年(1926)から昭和32年(1957)に逝去するまでのおよそ30年間居住、研究の場としたところである。

大正12年(1923)の関東大震災を受け、牧野の採集した標本や収集資料が失われることを危惧した妻壽衛すえが当時の大泉村(現在の牧野記念庭園の地)に土地を買い求め、大正15年(1926)に牧野はここに移り住んだ。

昭和15年(1940)、牧野の代表的な著作のひとつ『牧野日本植物図鑑』が発行されているが、この場所にあった書斎で書かれたとみられる。また、牧野収集の植物標本の中には自宅庭で採集されたものもある。

昭和32年(1957)、牧野の逝去後すぐに遺族より東京都へ寄贈、都は記念館や顕彰碑を建設し公園として整備し、昭和33年(1958)10月に都から練馬区へ移管され、同年12月に正式に「牧野記念庭園」として開園した。

練馬区の管理の下、昭和60年(1985)、牧野が東大泉に居を構えてから60年を記念し、胸像が設置され、顕彰碑の改修が行われている。平成21年(2009)には一層の保護を図るため国の登録記念物となり、さらに記念館と受付が建替えられた。

現在、庭園には牧野が植え、命名した等所縁の植物が多く残る。桜の一種、センダイヤ、ヘラノキ、亡き妻壽衛すえを偲んで命名したスエコザサは現在も庭園内で見ることができる。

庭園内の記念館には牧野の著作や愛用品、標本等を展示し、鞘堂には実際に牧野が研究活動を行っていた書斎と書室の一部が保存されている。牧野の庭の姿をよく残す庭園と合わせ牧野の業績を記念する場所である。

牧野記念庭園牧野記念庭園
牧野富太郎胸像とスエコザサ牧野富太郎胸像とスエコザサ
鞘堂内の書斎(左)と書室(右)鞘堂内の書斎(左)と書室(右)

 

上野毛かみのげのコブシ

【種別】

東京都指定天然記念物(植物)

【所有者】

公益財団法人 五島美術館

【所在地】

東京都世田谷区上野毛三丁目9番25号

上野毛のコブシは、都内にあるコブシの中で巨木であることを理由に、昭和35年(1960)東京都指定天然記念物に指定された。樹種はモクレン科モクレン属のコブシMagnolia kobus DC.で、公益財団法人五島美術館の庭園南東部、国分寺崖線の南斜面に生育しており、春先には見事な花を咲かせていた。

指定当時の樹高は約12メートル、枝張東西12.6メートル、南北17.5メートルを測った。幹が5本の株立ちであったが、平成14年(2002)10月2日の台風21号による強風で2本が倒木した。

この後、倒木防止の支柱等を設置し、肥料を施すなどの処置を行い、平成20年(2008)及び平成23年(2011)には、樹勢は緩やかであるものの回復傾向にあることが確認されていた。

しかしながら、平成27年(2015)7月、3本の幹のうち更に2本が根本の腐朽、大雨による樹体重量の増加及び地盤の緩みが重なったことで倒木。

所有者により継続的に施肥など管理が行われたが、平成29年(2017)から平成30年(2018)にかけて開花した花の数が徐々に減少した。

令和元年(2019)5月、開花していないとの一報を受けて現地調査を行ったところ、枯死を確認した。

枯死の原因は樹勢が弱化していた上に、平成27年(2015)の倒木で根の損傷部から土壌性病菌(ナラタケモドキ)が入ったためと考えられる。

開花時のコブシ(平成15年撮影)開花時のコブシ(平成15年撮影)
枯死確認時のコブシ枯死確認時のコブシ(令和元年5月23日撮影)

お問い合わせ

教育庁地域教育支援部管理課文化財保護担当
電話:03-5320-6862 ファクシミリ:03-5388-1734
メール:S9000026(at)section.metro.tokyo.jp
迷惑メール対策のため、メールアドレスの表記を一部変更しております。
お手数ですが、メール送信の際は(at)を@に置き換えてご利用ください。

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