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東京都文化財保護審議会の答申について

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公開日:令和5年(2023)2月15日

東京都教育委員会は、2月15日、東京都文化財保護審議会(会長 後藤治)から、東京都指定文化財として、新指定候補5件を含む6件の文化財について、答申「東京都指定有形文化財の指定等について」を受けましたので、お知らせします。

1 答申「東京都指定有形文化財の指定等について」の概要

新たに指定すべきもの 5件

市政(しせい)会館(かいかん)及び日比谷(ひびや)公会堂(こうかいどう)

内藤家(ないとうけ)住宅(じゅうたく)

紙本(しほん)木版(もくはん)着色(ちゃくしょく)融通(ゆうずう)念仏(ねんぶつ)縁起(えんぎ))」

南多摩(みなみたま)メカイ(めかい)製作(せいさく)技術(ぎじゅつ)

迷子(まいご)(じい)

既に指定しているものに追加して指定すべきもの 1件

題経寺邃渓(だいきょうじすいけい)(えん)

※ 詳細は別紙を御参照ください。

2 審議経過

(1)東京都文化財保護審議会総会(諮問)
令和4年12月28日
(2)東京都文化財保護審議会各部会
令和5年1月12日、20日、24日
(3)東京都文化財保護審議会総会(答申)
令和5年2月15日

3 今後の予定

今後開催予定の東京都教育委員会に、東京都指定文化財として新たに指定すること等を付議する。


別紙

 

市政(しせい)会館(かいかん)及び日比谷(ひびや)公会堂(こうかいどう)

1棟
附 設計図書・申請書等(簿冊)一式
竣工図面 一式

【種別】
東京都指定有形文化財(建造物)
【所在地】
千代田区日比谷公園1番3号
【所有者】
公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所(市政会館)
東京都(建設局)(日比谷公会堂)
【構造形式及び大きさ】
鉄骨鉄筋コンクリート造、タイル張り、地 下1階、地上6階建、塔屋4階建
指定建築面積 3,346.14平方メートル
写真:市政会館 と日比谷公会堂(上)市政会館 (下)日比谷公会堂

本建物は、日比谷公園の南東隅に所在する、昭和4年(1929)に竣工した、事務所棟と公会堂からなる複合建築で、設計者は、早稲田大学の建築学科の祖として知られる佐藤功一(1878-1941)である。

建物は、事務所棟である市政会館部分と大講堂を持つ公会堂部分が丁字形に配置されている。市政会館は、日比谷公園南側の道路に平行して一文字に配置され、中央に高く時計台を設け、その真下に中央玄関を配する。公会堂は、市政会館に対し直角に北側後方へ公園に突出させるように設けられ、公会堂の入口を公園側に設け、2階にバルコニーを配して公園に対して開けた構成をとる。 

建物の外観は周囲の風致に調和させることを目指し、大部分を茶褐色の縦筋模様が入ったタイル貼りとし、壁面に構造上また美観上、垂線を基調にした柱形を連結させる。 市政会館入口上部には横根沢石材で作られた彫刻が施され、窓台には黄色のテラコッタ が用いられアクセントを与えている。 

本件は、佐藤功一設計の「市政会館」と「日比谷公会堂」の異なる機能と空間を、複合的な建物として一体的な立面により実現させた、きわめて完成度の高い建造物である。 鉄骨鉄筋コンクリート造の初期の建物であり、本格的な音響設計が試みられた公会堂として、建築技術史上重要である。

また、戦前から、日比谷公園と一体となって、変化し続ける都市の記憶と景観を継承し続ける重要なランドマークであり、東京ならではの地域的特色が顕著な建物である。

 

内藤家(ないとうけ)住宅(じゅうたく)

6棟 主屋、書院、蔵、書院の蔵、表門、庭門、土地付

【種別】
東京都指定有形文化財(建造物)
【所在地】
府中市美好町三丁目20 番地の1の一部
【所有者】
個人
【構造形式及び大きさ】
主屋:木造2階建、複合屋根(入母屋造・切妻造)、銅板葺、 建築面積367.51 平方メートル
書院:木造平屋建、寄棟造、銅板葺、建築面積125.04 平方メートル
蔵 :木造2階建、切妻造、トタン葺、建築面積30.14 平方メートル
書院の蔵:木造2階建、切妻造、トタン葺、建築面積26.40 平方メートル
表門:木造一間冠木門、間口3.31 メートル、両袖塀付
庭門:木造一間棟門、切妻造銅板葺、間口1.84 メートル、控柱付
土地面積:2,373.05 平方メートル

本件は、江戸時代後期に甲州街道府中宿の西に位置する本宿村の名主を務め、明治時代には西府村の初代村長を務めた上層農家の屋敷である。

主屋は江戸時代後期の建設と推定され、格式高い式台・玄関を備えた構えであり、都内でも最大規模の平面を持つ2階建ての建物である。別棟となる書院を備える民家は稀で、表門から見える主屋の北側に設置された式台・玄関から書院へ客を迎え入れる独自の配置がみられる。

また、建物は全体的に保存状態が良好であり、一部に後世の改変はあるものの、主要部材が残るため復原可能な状況である。敷地には、屋敷構えを構成する内、主屋、書院、蔵等の主要建物群が一体的かつ良好に保存されている。

旧甲州街道府中宿周辺の往時の様子を伝える唯一現存する建物であり、江戸時代後期以降に家勢を増し、村の主導的役割を果たした江戸近郊農家のあり様を示す建物として歴史的にも貴重である。

写真:内藤家母屋主屋(北から)
写真:内藤家主屋立面図主屋立面図(北面)

 

紙本(しほん)木版(もくはん)着色(ちゃくしょく)融通(ゆうずう)念仏(ねんぶつ)縁起(えんぎ)

2巻
附 谷寿喜書簡 3通

【種別】
東京都指定有形文化財(絵画)
【所在地】
港区西麻布四丁目11 番7号 繁成寺
【所有者】
繁成寺(港区西麻布四丁目11 番7号)
【構造形式及び大きさ】
巻子装
上巻:縦34.8 センチメートル×横1,948.8 センチメートル
下巻:縦34.8センチメートル×横2,087.5センチメートル

本作は、江戸時代、享和年間に制作された木版摺りによる融通念仏縁起絵巻(以下「享和版本」という。)を加工し、上下二巻の絵巻としたものである。

享和版本は、京都嵯峨の清凉寺所蔵の融通念仏縁起を墨一色で刷り写した版本で、享和元年(1801)の清凉寺釈迦如来像の江戸出開帳を契機として制作された。

本作では、詞書の文字の部分は享和版本の墨摺りのままとし、料紙装飾については、墨刷りされた文様が金や銀、緑、青、黄などで塗りつぶされている。絵の部分は、墨摺りされた線を元に、彩色が施され、元の墨線はほとんど塗りつぶされている。画中の文字の部分は、墨摺りされた線が金泥でなぞられている。全巻にわたって、質の良い顔料と金泥をふんだんに用いて、細かいこところまでおざなりにせず、大変な手間をかけて精緻に描き出す点が、本作の大きな特色である。

また、本作には、江戸後期に活躍した絵師、谷文晁の娘である谷寿喜が、本作を所蔵する繁成寺の初代住職であった深山法運に送った書簡3通と、本作の由来を記した、愛知県・大樹寺住職であった京極了道による『融通念仏絵伝裏書』1冊(以下「裏書」という。)が付属していた。残念ながら現在裏書の原本は失われているが、写しが残されている(鳥取市歴史博物館所蔵)。谷寿喜の書簡には、本作の由来書をしたためたことが記される。裏書は、その由来書に基づき書かれたもので、享和版本及び本作の制作に、松平定信の命を受けた谷文晁が関与したと記されている。本作は完成度の高さから、その彩色を谷文晁が行ったことが想定されうるが、断定はできない。

本作は、京の文化財が、出開帳を契機として江戸にもたらされ、新たに作品を生み出し、それが近代の東京で見出だされ、所縁のある寺院に大切に伝えられたという点で、江戸東京の文化史において重要な作品である。

写真:融通念仏縁起絵巻

 

南多摩(みなみたま)メカイ(めかい)製作(せいさく)技術(ぎじゅつ)

【種別】
東京都指定無形民俗文化財(民俗技術)
【所在地】
八王子市・多摩市
【保存団体】
八王子由木メカイの会
多摩めかいの会
写真:メカイ

本件は、江戸時代から昭和前半まで、南多摩地域の多くの農家で重要な収入源として作られたメカイの製作技術である。

 メカイは、文字で表すと「目籠(めかご)」と表記され、製作者の間では「メケェ」とも呼ばれた。多摩地域の里山で自生する篠(=アズマネザサ)の表皮を薄く剥がしたものを編み上げる六つ目の籠で、江戸時代から製作されていた。製作地の農家の間では農作業や家庭の炊事用など日常生活用具として重宝された他、都市部の商店や料亭に出荷・販売することを目的として製作された。冬の農閑期に大量生産され、農家の重要な現金収入源であった。

南多摩のメカイ製作技術が、他所の竹細工と異なる主な特徴は3つある。一つには、メカイ包丁を使用すること。二つには、芸術的な完成度は求められていなかったので、訓練すれば皆が作れたこと。三つには、材料の篠を乾燥させずに青いまま使うこと。半年ほど乾燥させた方が出来上がりは安定するが、当地のメカイは主に正月の年賀用としての需要であり、青い方が好まれた。

メカイは、高度経済成長期以前の人々の生活に欠かせなかった里山を維持するために、伐採する必要がある篠竹を再利用して製作されてきた、都民の生活文化の特色を示す民俗技術として貴重な文化財である。

写真:メカイ製品
写真:メカイ製造過程1
写真:メカイ製造過程2

 

迷子(まいご)(じい)

1本

【種別】
東京都指定天然記念物(植物)
【所在地】
三宅村坪田6315番地
【所有者】
三宅村
【指定内容・数量】
シイ 1本
樹高約17.5 メートル、幹周8.5 メートル
保護すべき範囲は枝張りの範囲
写真:迷子椎

迷子椎は、三宅島坪田の大路(たいろ)池北西部の、池に下る緩やかな傾斜地にある樹齢不明の古木である。

 三宅島は、東京から南へ約180キロメートルの太平洋上に浮かぶ円形の島で、全島一山から成る火山島である。島の中央にある雄山(おやま)は標高775メートルあり、現在も水蒸気を噴出させる活火山である。この雄山が海岸線まで裾野を広げた形を基盤として、随所に噴火による特殊な地形がみられる。大路池は爆裂火口跡であり、火山湖としては伊豆諸島唯一のものである。

 『三宅島史』(1982)によれば、島民は、噴火の起こる現象は神の怒りの姿であると信じて、これを御神火(ごじんか)と敬称した。さらに噴火口を御穴(みそど)、火山灰を御灰(おはい)と呼んで祀って来たという。本樹は、三宅島の噴火を司る神々が宿る神木であるといわれ、みだりに近づくことも禁じられ「やどり木」と呼ばれ畏敬された。また、かつての椎の実は島民の大切な食料の一部であるとともに、江戸に送り出す産物でもあった。秋になると椎の実を拾う人々がこの密林に入って、時によると方向を失って危険にさらされる事態も起こったが、その時に「やどり木」を目標にすれば密林から抜けられるといわれ、「迷子椎」つまり迷子を助ける椎という意で呼ばれ、島民の生活と深いかかわりがあった。

本件は、噴火とともに生きる三宅島の歴史を伝える伝承を持ち、人々の生活に深くかかわり古くから親しまれてきた、由緒のあるスダジイである。また、主幹頂部が失われた後も、永い年月を経て主枝や萌芽枝の伸長等により形成された独特で複雑な樹形を持ち、東京都の自然を記念する名木として貴重である。

 

 

題経寺邃渓(だいきょうじすいけい)(えん)

【種別】
東京都指定名勝(追加指定)
【所在地】
葛飾区柴又七丁目1751 番1(地番)
【所有者】
宗教法人 題経寺
【指定面積】
既指定面積 2,113.30 平方メートル
追加指定面積 1,270.43 平方メートル

 題経寺邃溪園は、大客殿北側に作庭された2,000平方メートルほどの池泉庭園である。 昭和4年(1929)の大客殿竣工に合わせ、庭師・永井楽山(ながいらくざん)(1880-1971)が作庭を手掛け、昭和43年にはほぼ現在の景をなす庭園となる。

大客殿は、邃溪園の南側に位置する書院造の客殿で、明治中期から昭和初期にかけての境内拡張に伴う⼀連の整備の最後を飾る建築として、昭和4年(1929)邃溪園創設と同時期に造営された。造営者は、日蓮宗篤信者の一人で、港区芝の名棟梁といわれた宮大工・鈴木源治郎(1871-1951)である。

 主要部は四室一列型の平屋建て、南北梁間5間(8.4メートル)東西桁行14 間(27.4メートル)である。南北両面に廊下を通し、北面に高欄付き濡れ縁の中央寄りには物見台を突出させる。客座敷隣の最も東側の部屋は上段の間で「頂経(ちょうきょう)の間」と称し、伝統的な形式を用いて格の高さを表現するとともに、床柱の手前に南天の自然木を配し自由度を持った豪奢な意匠で飾る。入母屋造桟瓦葺きとし、銅板葺きの庇を長く出す外観意匠は、昭和初期の近代和風建築の特徴として評価される。

題経寺邃溪園は、池泉を中心とした大規模な寺院庭園であり、幽邃な谷川の流れを表現した複雑な池汀を持つ庭園として秀逸であることから、芸術的・学術的価値が高いとして平成28年(2016)3月11日に東京都指定名勝に指定された。本園は本来、大客殿からの座観式の視点による作庭されたものであり、大客殿は庭園とともに昭和4年(1929) に竣工した。大客殿を含む南側の敷地を今回追加指定し、庭園全体の一体的な保護を図る。

写真:題経寺邃溪園大客殿全景題経寺邃溪園大客殿全景
写真:大客殿立面図及び平面図大客殿立面図及び平面図

お問い合わせ

教育庁地域教育支援部管理課文化財保護担当
電話:03-5320-6862 ファクシミリ:03-5388-1734
メール:S9000026(at)section.metro.tokyo.jp
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