小坂藤内の墓【こさかとうないのはか】
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所在地:差木地
差木地バス停から徒歩2分、林浦寺の右側参道入り口の右手に、漁業権獲得の先覚者、小坂藤内の墓がある。 寛政12(1800)年に、波浮港村がつくられたが、親村の差木地は山方村(1)のため漁業権が無く、天保の大飢饉で死者20名を出すに至った。百姓惣代小坂藤内、塩入松兵衛、杣頭井沢清兵衛らは窮状を打開するため、村の代表として天保9(1838)年に新島村を相手どり、代官羽倉外記役所に漁業権獲得の訴状をおこした。代官の来島に願書を提出しようとしたが果せず、上京し訴状を提出したが効果なく、埒があかないと考えた藤内は、老中水野忠邦に直訴した。漸く天保12(1841)年に回船1艘、漁船3艘が食料の確保という条件付で認められたが、名実ともに漁業権を確立したのは明治7(1874)年であった。藤内は明治4(1871)年4月16日に没している。
- (1) 岡田村、新島村(元町)を浦方、泉津、野増、差木地を竈方(後に山方)と称した。浦方は漁業権、生産物の運送と交易権、廻船株の取得権などを独占し、竈方は運上の対象財源である塩と薪の生産に従事した。年貢は主に塩としていたが、元禄3年(1690)年に塩年貢が廃止された。薪を浦方の村に売ることを生業としていたが特に船を持たない山方村の生活は厳しく、天保の大飢饉により餓死者が出た。
記事ID:031-001-20240814-006172